朝ごはん:ナポリタンうどん
夜ごはん:サバの塩焼き、白米、
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おれは、「考えてから実行に移すまでにウダウダ考えている時間があまりにも長すぎる」ことに気付く、思い返すと1日のうち23時間は「考え中」である。ローディングの人生。それが良いことなのか悪いことなのかはひとまず置いておいて(人生を変えるほど対象が大事な場合はたくさん考えたほうが良いと思うから)「日々の仕事」や「日記を書く」などの些細などうでもいいことにまで23時間エンジンを温める時間が必要なのは問題である。どうでもいいことに関してはとりあえず走り出してから仔細を決めればよいのだ。
なぜそんな、実際に手をつけるまでに途方もない時間がかかるのかを考える。まず思い浮かぶのは「可能性を刈り取られるのが嫌だ」ということだ。つまり仕事を始めてしまえば「最高の仕事をする可能性」がどんどん減っていくし、日記を書き始めれば「最高の日記が書きあがる可能性」がどんどん減っていくからである。手をつけないうちは、無限の可能性の地平が広がっているので、可能性の略奪は起こりえない、手をつけた途端にどんどんと、おれの「素晴らしい作品を創り上げる可能性」は目減りしていくのだ。それが恐ろしくて走り出せないというのは、まぁ、あるだろう。
その前提に基づいて考えた場合、「最高の仕事」「最高の日記」とはどんなもので、それが完成しない場合どのようなデメリットが生ずるのかを考えたほうが良いだろう。よく考えずに走り出した結果、まぁ可でも不可でもない成果物ができたとする。急いで作ったのでミスもあるだろう。それを先方に提出した場合、もちろん俺の評価は特段あがることもなく、場合によっては下がることもあるだろう。世の中がおれに向ける視線も冷ややかなものになるかもしれない。なるほど、おれの認知がめちゃくちゃバグっていなければ、これが起こりそうなデメリットだ。そんで、冷静に考えるとかなり普通にいやなことだ。クライアントから「こいつは仕事ができないな」と思われることはまったく構わないのだが、世の中のみんなに「こいつはしょうもない仕事しかしないな」と思われるのは非常に怖い。
では、なぜ「クライアント」という1個人(1企業)からの評価が下がるのはどうでもいいと思えるのに、「世の中のひとびと」という漠然としたものからの評価が下がることに対しては非常に恐ろしいと思うのだろうか。ここらへんに俺の抱く慢性的な底のない不安の正体が隠れている気がする。恐らく、このあたりの認知がおれはめちゃくちゃ歪んでいる。ここを解さないことにはまったく始まらない。
「世の中のひとびと」は、範囲が広すぎるからか?つまり、おれの友人や、好意を抱いている人、親族、それらがすべて含まれてしまうからではないか。そいつら全員から急に失望された場合、それはかなり心に来るものがあるだろう。それを恐れるのは分かる。
「世の中のひとびと」とは、本当に「おれの友人や大事な人」も含まれるのだろうか?ウーン、どうだろう。含まれてしまうような気もする。ここがどうしても、認知の歪みでは解決できないような気がしてしまうのだ。おれの仕事ぶりのいかんによっては、おれの友人はおれに失望するだろう。まったくおかしなことではない。
対象に問題がないとするならば、デメリットの捉え方が誤っているのか?つまり、「失望される」ということはそこまで重要ではない。ということなのかもしれない、実際に、クライアントから失望されることは受容できているのだ。つまり、友人や大事な人から失望されることも「1つの企業から失望された」と捉えられれば、よいのではないか?
ここな気がする、そうだ、自他の境界線の問題なのかもしれない。他人との距離の捉え方を見誤っているのかも。あくまで仕事の関係のように、たまたま人生を同じタイミングで協力して進めているだけの人間だと思えればそれでいいのだ。そしておれがヘマをやらかしたときは、正しく去ってもらえばいい。
とりとめのない思考を整理したらすこし落ち着いてきた。