2024/05/04 SFアンジャッシュ

日記を書き始めた目的の1つに、日々の記録とは別に「長文を書くのに慣れる」という目論見がある。まとまらない思考をまとまらないままに振り下ろせばそれは自動的に長文になるものだが、小奇麗で短く整えられたフォーマットしか許さない各種snsでそれは叶わないので。零れ落ちるものをとにかくかき集めて残す癖を付けたかった。そしてそれは現状やや成功している。以前よりも長い文章を書くことに抵抗がなくなってきている気がする。普段なら自分の為でさえ削ること、不安定なこと(明日には別のことを思っていそうなこと)、繰り返しやトートロジー(それは本来削るべきだが、文章においては重みづけの役割を果たすので)、妄言、浅学者故の厚顔無恥なたわごと....、を、とりあえずパンくずとして落とせるようになってきた。例え食べカスであっても過去に立ち返るときに目印は多い方がいい。過去の過ちは参照できるようにしておいたほうがいい...

 

引っ張られるように、あらゆるコミュニケーションで文章が長くなっていて、これはあまりよくないこともある。コミュニケーションは日記ではないのでパンくずではなく焼きたてのものをお出しすべきなのに、そのトーンを守れない。最近印象的だったのは、人は突然長文のよくわからない文字列を投げつけられると、それをaiと判断するということで、特にそれ自体には驚かないが興味深くはある。先日友人とテキストで会話をしていたところ途中から全く話がかみ合わなくなってしまい、理由を聞くと「途中からAIが書いていると思って...」と言われた。なるほど...

例えば、ある一定程度のリテラシーが...というのも個人的な願いがたっぷり含まれてしまうのであまり雑に括りたくはないが、とにかく、例えば信頼している人との会話において、おれがイラストを描いてみせた時に、それがどれだけ「っぽく」あろうと、即時に「それはaiか?」と聞かれることは、ない。なくあってほしいという願いがかなり先行しているが、ない。ないだろうそんなことは。ただ文章だと、質によっての「っぽさ」の審美がかなり難しく、とりあえず量と即時紐づけられるような気がして、とにかく内容の精査に先行し、その文量が異常であればaiであると判断されてしまい、しかもそれを指摘する精神的負荷が、イラストに比べてかなり低い気がしていて、そしてそれはこちらも了承していて、正直aiの出力だと捉えられてもいいのだが(おれの人生のタイムラインを輪切りにしてその最新のものだけをつまんで味わう場合、そのブッキッシュでくそ生意気な振る舞いはaiの方がましだと思われるので)ただ、命が乗っかってないと思われた空しさだけがスゥーと滑り続けるだけで、滑り続けるだけなのだが、すごい話ではある。言葉を尽くせば尽くすほど言霊のハビタブルゾーンは遠く離れていくということで、ありふれた話ではあるが当事者になると空のやかんを持ち上げたような感覚である。力み力みのすっぽ抜け。すべての人間が他人のスピーチを通しで聞く義理はないし興味もない。ということを話し手は忘れがちで、話し手じゃないな、おれは、おれは忘れがちで、言葉を尽くせば空の水槽を水が満たすように隙間なく思いが伝わると思いがちだが、気泡一つないピカピカのアクアリウムは偽物の匂いがプンプンで、空気を入れてやらないと生き物は住めず、その空気の役割を果たすのは気泡で、つまり隙間で、語らないということで...

会話は難しい

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「ホテル・メッツァペウラへようこそ」を一気読みした。こういう話をもっと読みたい。外国が舞台の平均年齢高めのホモソな日常系というか... ジャンルが不明で、横断で検索できない。地道に探すしかないか...