2024/05/09 蛸ス

キムチをぶんぶんチョッパーでみじん切りにしないほうがいい。粘性が高いキムチは壁面にこびりついてうまくカットされないし、洗っても洗っても匂いは取れないし、いいことなし。ただ、細かくみじん切りにしたキムチで作るキムチチャーハンがうまいんだ....!面倒なものは美味い。面倒な手続きを経て創出された自炊がうまかった時、もちろん美味いなあとは思うが、同時に「こんなにうまかったら、面倒だけどもう一回作っちゃうよ。どうしてくれるんだ。めんどうだなあ」と思っている。それを作っている自分を想像してげんなりする。

 

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タコス。タコスのことを思う。今日、「究極に効率化された最速のタコス」の作り方の動画をみた。これでもかなり面倒そうだが、ギリギリがんばれば手が届きそうなライン。皮を市販のものにしたりすればもっと攻めれるだろう。そして、うまそうだ。

うまそうだし、実際うまいのだろうが、それはそれとして絶対にめんどくさくもあり、それが「釣り合っている、釣り合っていない」という話をしているわけではなく、仮に釣り合っているどころか得られるリターンの方が莫大だとしても、このめんどくささはそれだけで、かなりの質量を伴ったイヤさとして存在している。自炊とは、例えるのであれば登山の逆の様なもので、谷に分け入っていく感覚である。登山は三角の上に上がっていくイメージ、自炊は三角の下に落ち込んでいくイメージだ。両方、快を得るために不快を経由するという構造は同じだが、順番が違う。登山は「上がる(不快)→カタルシス(快)→下がる(やや不快)」自炊は「下る(やや不快)→カタルシス(快)→上がる(不快)」だ。快の頂点が後者の自炊の方がやや後ろ気味である。自炊における「上がる(不快)」に相当する部分は分かりやすいだろう。後片づけだ。皿洗いとキッチンの原状復帰、そして制作物の処理というのも含まれる。不味いものをつくってしまったとしても、処理しなければならない。そして自炊自体、やりたくてやっているわけではない。おなかがすくから、安く済むから、やむにやまれぬ事情でこなすものだ。そこに山があるから登って行っているわけではない。重力の様な逃れられないエネルギーによって吸い込まれていく感じ。だから谷に落ちていく感覚である。タコスなんてつくってしまったら。ああ。チャレンジャー海溝から浮上するくらいたいへんそうだ。後片付けが。←こいつ人生たのしくなさそう