2023/09/25 スイカのゲーム

今日は一日中スイカのゲームをやっていた。スイカのゲームで伝わりますか?

 

イカのゲームは、正式名称をスイカゲームというらしい。正式名称のほうが短くなるのはすごい。

イカゲームは、落ちものパズルである。とにかく上から落ちてくる果物をくっつけて進化させていくと、最終的には大きなスイカができる。大きな果物を作れば作るほどハイスコアが狙えるので、スイカを目指して頑張りましょうというゲームだ。それがスイカのゲーム、スイカゲーム。

 

最初は特になにも考えず、落ちてくる果物たちを重力に任せてくっつけては満悦していたが(くっつくときの音が小気味よくて、また良い)、しばらくプレイしていくにつれ、どうやら何も考えずにくっつけていくだけではスイカを作るのは難しいということが分かった。

適当にプレイしていてもたまにスイカが生まれるときはあるのだが、安定して作るのはとても難しい。

 

いくつか上手な人のプレイ動画を覗いてみると、彼らはのちの連鎖のことまで考えて、ある程度くっつかせるのを我慢したり、大きなフルーツは端っこに寄せたり、そういう小さなテクニックをいくつも使用している。この人たちっていつもこういうこと考えてるんですか?すごいね。

 

ただ、そういう小さなテクニックは散見されるのだが、肝心の「どうすれば安定してスイカを作れるのか(=つまり、どうすれば安定してクリアできるのか)」という問いには誰も答えていないように見える。

 

とにかくできることをやりつつも、ある程度無邪気な物理演算や配牌に振り回され、たまにスイカができるとラッキーだね、といった風な諦観。曲がりなりにもパズルゲームなので、恐らくすべての手に好手、悪手があるのは確かなのだろうが、流行り始めたのが最近ということもありまだ安定した手順が確立されていない感じ。みんなまだ試行錯誤している段階に見える。

 

適当にやってスイカができるときもあるし、テクニックに従っても惨憺たる結果になるときもある。それがスイカのゲーム、スイカゲーム。

 

やることやってもダメなときはダメだし、適当にやってうまくいくときがある。という段階なので、まだ誰もスイカゲームの胎の底にはたどり着けていない。つまりスイカゲームが純度100%の運ゲーパズルゲームだった場合、もしかしたら安定クリアの方法が「適当にやる」可能性もあるということだ。いま、現時点では。

 

自分はこの「適当にやること」が肯定されるゲームがかなり好きだ。あらゆるゲームは本来「適当にやること」が肯定されてしかるべきだと思うのだが、パズルゲームにしろ対戦ゲームにしろ、適当にやることが肯定されにくい構造になっていると感じる。

 

つまり適当にやるとクリアや勝利に少しでも近づけなくなる可能性がある以上、持っている手札で最大限の出来る努力はすべきだということなのだろうが、別に近づけなくてもいいのでは?と思う。ゲームなんだし。

 

その点、このようなまだ開拓段階にあるゲームは、大手を振って適当にプレイすることが肯定されていて、うれしくなる。(一応、発売からはかなりの年月が経っているらしいが....)

 

世の中すべての人間が勝利やクリアでのみ快楽を得られるわけでは無いし、勝利でのみ快楽を得られる精神構造の人間たちにゲームの楽しみ方をおもねる必要も薄いと感じる。「ボタンを押すと果物が落ちてきて楽しい、たまに大きくなるし。」という楽しみ方の姿勢だってある。
ただこの姿勢は「ゲームごときに本気になっちゃってどうするの?」という虚無主義的な態度と混同されがちで、少ない言葉で伝えるのは難しい。まったくもって、ゲームに本気で取り組み、勝ち星を死ぬ気で拾いに行くという姿勢の人たちを揶揄するものではない。

 

ここでいう「適当にやる」とは、いわゆる利敵行為や放置プレイ等のことを示さない。
つまり、「作者が設定したゴールの方向には歩いていくが、その速度や精度の詰め方については問わない」という姿勢だ。


イカゲームでいうと、このゲームには作者が設定したある程度明確な目標(スイカを作り、ハイスコアを目指す)があり、その姿勢に共感してゲームを購入した以上、その方向に向かって歩いていくことは求められると思う。

 

つまり、「果物を落とす」ということは必要だ。果物を落とさなければゴールには一切近づかない。無だ。

 

イカゲームを買っておいて、メインメニューで放置したり、一切果物を落とさずスマホに夢中.....。
そのような態度は、やや不義理であると感じる。

 

果物を落としてさえいれば、スコアは増える。いずれスイカができる可能性もあるだろう。この段階に来て初めて「適当にプレイする」という行為がある種の正当さを帯びてくる。ここまでくれば、もうあとは好きにさせてほしい(願い)

 

一人用のパズルゲームやアクションゲームならある程度共感を得られるかもしれないが、対戦ゲームだと「適当にやる」というプレイスタイルに途端に嫌悪感を示す人が多くなることは容易に想像できる。「どういう風にゲームをプレイするかは自由だが、他人を巻き込むな」という主張か。

 

例えばスプラトゥーン


スプラトゥーンと言えばおなじみ任天堂の大人気IPで、インクリングというイカ人間がおたがいの領土をインクで塗り合い、その結果得られるスコアの多寡を競い合う対戦ゲームだが、このゲームにも恐らく製作者側の求めるゴールがあるだろう。

つまり「インクを塗って、領土を広げてほしい。」「相手に塗られたら、塗り返してほしい。」「メインやスペシャルやサブウェポンを駆使して、相手を倒してほしい。」

恐らくこのような願いを、ゲームシステムやスコアを得られる構造から想像することができる。

 

この方向に進んでいくことは必要だ。だってあなたはスプラトゥーンを買ったのだから。スプラトゥーンをやりたくて買った以上、これは目指すこととして了承するべきだ。実際に目指すか目指さないかは別としても、この前提を覆すことが支持されるとは思えない。

 

しかしながら、これさえ了承すれば後は適当にやっていいのでは?と思う。


インクをぶちまけながら相手に脳死で突撃し、たまにキルができたり、キルができなかったりする。
強い武器を使わない。最適な装備にしない。よく見れば避けられる弾を、よく見ない。落ち着けば倒せる敵の前で、落ち着く努力をしない。これらは十分、尊重されるべき選択だと思う。努力をすることを要請するシステムは息苦しい。

 

例えば、スーパーマリオブラザーズ1-1の最初のクリボーを跳び越すというシーンを、適当に目分量のタイミングで跳び越そうとして幾度となく失敗している人に向けて、「BGMを聞いて、テテンテンテテンテン!のテン!のところでジャンプするとちょうどいいですよ」や「クリボーのちょっと前で一度止まって、あっちが近づいてくるのに合わせてジャンプで跳び越すといいですよ」などとアドバイスをするのは、的外れだと感じることがある。
だってそんな、適切な努力をしたら飛び越えられてしまうじゃないか、と思う。一切の努力をせずにたまに成功するのが良いんじゃないですか?
だって努力したら成功しちゃうじゃないですか。10の入力が10で返ってきてるだけだともいえる。

 

適当に果物を落としているとスイカができるときがある。これはかなり楽しい。

ただ適当にやらず、好手を選び続けてスイカを作りたいかと言われると、そうは思わない。だって、そんな、好手を選び続けたらスイカができてしまうじゃないかと思ってしまう。

働いたらお金がもらえてしまうじゃないか。そんなの当たり前で、手続きをなぞっているだけだ。なんか適当に日々を過ごしていたら、なぜかお金が貰えてしまった!のほうが、嬉しくないですか?現実ではそんなこと起こり得ないから、せめてゲームくらいそういう楽しみ方をさせてくれよと思う。手続きをなぞるのが苦痛だ。

 

「ゲームごときに本気になっちゃってどうするの?」ではなく「ゲームだからこそ心から手を抜いて、本気で取り組まなくてもたまに良いことが起こるという体験をしたい」と思う。ゲームは現実に対する藁人形だ。贄(にえ)なのだ。