2024/02/11 獄

男同士のホモソーシャルな猥雑且つ乱暴なコミュニケーションに憧れるが、いざ自分がその渦中に放り込まれると恐怖で固まってしまう(もう死ねよ)

 

_

 

 

 

bookclub.kodansha.co.jp

献鹿狸太朗 「地ごく」を読んだ。

前作の「赤泥棒」は凄まじい代物で、何がどう凄まじいかと言えば読んでくれとしか言いようがなく読了済の方からしても何をそこまで喰らうことがあるんだと思われるかもしれないが、とにかく、おれにとっては「この物語は自分事だ。」と思わせる力が強すぎて(あらゆる物語は読者にそう思わせることを目標に拵えられるのだろうが、それが大成功しすぎていて)つまりぶん殴られてしまってしばらく読書という体験自体にトラウマを覚えるほどであった。自分という存在が丸ごと三世の書のように書き込まれているようで心底恐ろしかった。己がひっそり隠れて研いできた特性や思想、構え方がこんなにも記述可能で陳腐なものだったのかという当然の絶望。大衆文学にターゲッティングされるほどに広い射程範囲の中に自分も属しているという当然の絶望。おれの中であの発行物は完全に呪物であり禁書だ。もう2度と読みたくないがもし読まなかった人生があったとしたらどうなっていたんだろうという恐怖もある。

 

そんなことがあったのだからそれは恐る恐る最新作を手に取ったのだが、今作の短編集において仮想敵(つまり主人公の事だが、便宜上仮想敵と呼ぶ。)とされていたのは空っぽの三十路と空っぽの主婦だったので、その2つのラベルに属さないおれはギリギリ安全圏から焦土を読み下ろすことができ一安心だった。「赤泥棒」もこれほど他人事のように読めればどれだけ幸せだろうかと思った。

 

 

_

 

 

シュクメルリを初めて食べた。とんでもない食い物だ。

臭気と口当たりは完全に「分量を大失敗した自炊」であるが、噛み下す内に理解可能になっていくのがすごい。これは明確に料理であり、計算があり、理屈があってこの一見大失敗状態に落ち着いているのだと理解した。それはある意味救いであり、おれがしょっちゅうキッチンで錬金に失敗する似たような成果物も理屈さえ通っていればジョージアの家庭料理に迫れるのかもしれない。