2023/12/29 ゆるネガ・来年の目標①

今年の9月後半から毎日日記を書き始め、なんだかんだそこまで苦もなく続けられている。

 

おれの日常はかなり起伏に乏しく、ひたすら自宅に籠りエンターテイメントの切れ端のようなものを編んでいる。つまりめったに外出もしなければ、他者とあまりにも関わらない生活が常である。故に良くも悪くも外部からのランダムな刺激がほとんどなく、当初は書くことが無さすぎるのではないかと危惧していたが、毎日食べたものやプレイしたゲームのよもやまを記録しているとそれだけでトピックはできるものでダラダラと続いている。そして恐らく今後も続いていくことが予想される。少なくとも向こう1年は続けられる気がする。

 

そこで、来年の年末に答え合わせができるよう、ゆるい2024年の目標を立てておく。そうすれば来年末の1日分はこの話題(果たして達成できたのか!?どうなのか!?ドキドキ!)で日記を消費できる。賢い。

目標と言っても、何かを成し遂げたい。だとか、何かにチャレンジしたい。といったプラスの目標は、ここではたてません。そういうのは向いていないので。ここでするのは逆で、逆の話で。

 

2024年は××をしない。という目標をたてる。

本当に常々思っていることだけど、今は「やり」が簡単すぎて、逆にやりを我慢する方が難しくなっていると感じる。気を抜くと直ぐに「やって」しまう自分がいる。あらゆることに気軽にチャレンジしてしまい(できてしまい)、すぐ何らかのフィードバックを得、所属したり表現してしまっている。そのたび、聖域が1つずつ汚れていく感覚に陥る。汚すにしても、もっと淑やかな汚し方があったのではないかと後から思う。もっと、「やる」を慎重にしたいとずっと思っている。「やる」というのはもっと孤独に、静かに発露するべきで、そもそも何をやるかとかやりたいかとかやっただとかを提示するものではないと感じる。誰にも気づかれずにやって、表面上はやってないこととして生きたい。それはやりを隠し通すという意味ではなく、まだやっていない感性を持った自分のままでいたいという無茶な願いである。故にやらないという宣言をする、今ここに...

 

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2024年これをしない① -焦り、狂わない。

 

年々念仏のように唱えなければならなさを増し続ける、必須の目標である。積み重ねてきたものを信じ、誰のものでもない自分の胎の底の欲を無限に欲することだけが実利としておれに幸福を返してくれると知っているのに、ふとやってくる他人名義のしょうもない焦りーそれはつまり、他人と比べることによって剥き出しになる何らかの数値の差などーが弱った心を侵食し、本当にこれで、このままでいいのだろうか?と惑わせる瞬間が、確かにある。その度、何もかもをかなぐり捨てて当座の安心を得るためだけに狂い、平時だったら絶対にしないような奇行に走ってしまうということが、ここ数年はあった。別に多少は気が狂ったとて良いのだが、他人が起因するパニック故に他人を巻き込む性質があるのが厄介で、今年は他人に己の存在理由を背負わせてしまった(保証させてしまった)瞬間が何回かあった。ここは反省すべきところである。

 

後は、焦りが生じる時間の隙間を、狂わずに隙間として死守していく、というものがある。例えば100%無駄な遊びに興じている時間、何も考えずにぼうっと座っている時間。惰眠を貪っている時間。2024年はこれらの時間を絶対にこのままにする。「この時間、何かできるんじゃないか?」と思っても頑なに何もしないでいく。ヘルシーな生活は絶対にこの隙間からしか生まれないことが(経験上)分かっている。隙間を隙間として守り抜く所存である。

 

つまり、言い換えるとこうだ。来年は気を確かに。