2024/04/18 香らないパリパリ旨チキン

劉慈欣短篇集の円が読み終わらない。内容は以前も言及した通り軽快でたいへん面白いのだが、異常なスケールの物語が数ページごとに細切れにされて何度も0から提供されてくる(短編集故に)その構成は、さながら丸太の威力でジャブを受けているようで、こちらの体力がもたない。一旦積んで、戸谷洋志「親ガチャの哲学」を読んだ。親ガチャ的厭世観というワードを軸に進んでいくその構成は大変分かりやすく、語り口も平易で哲学がまったくわからないおれにも読みやすかった。おすすめです。ただ、今その親ガチャという単語の犠牲者というか、その影響の渦中にいる人にはあまりおすすめできないかもしれない。もう少しだけ憐憫に浸らせておいても良い気がする。確かに階段を1段登れるかもしれないし、良くすることを引き留める道理もないのだが、今、この些細な段差をヒーコラのぼるくらいなら、今は緊急回避に努めてほしいと思う気持ちもある。「私」を「私」として引き受けるにはとんでもない体力が必要で、その体力こそがまた親ガチャ的厭世観の産物ではあるが決定論的な配給である。体力が不足している人間に必要なのは何より時間であると、思う。「私」を「私」として引き受ける問題、ここが堂々巡りになってしまう気がする。浅学ゆえにこのループの脱却方法が分からない。もう少し勉強しなければならないが、机に噛り付く体力はもうない、その理由は....(ループ)

 

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期間限定のケンタッキーのメニュー「ごま油香るパリパリ馬塩チキン」を食べた。塩とごま油の味はあまりしなかったが美味しかった。奇妙な体験だ。胡椒の味がしたがそんなに胡椒を推していないな、本当に入っているのかも分からない。塩とごま油の味を謳う商品は毎年いくつも発表されているが、腑に落ちたことが無いな。ぼんやりした旨味を感じるが、塩とごま油ってあまりにも味の基盤過ぎて、ファウンデーション然としすぎていて、味を観測できる地表面まで立ち上ってこない。

 

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話を戻すが、「円」に収録されている中で「詩雲」という短編があり、それが大変面白く衝撃を受けた。衝撃を受けた理由は「こんな発想はなかった」という陳腐な理由なのだが、訳者後付けを読んだところ似たような発想の元書かれた先駆の作品がいくつかあるらしい。これらを知っている状態で「詩雲」を読んだら、ありふれたテーマの作品だなあと思ってしまうのだろうか、それもそれで悲しい。