2024/01/19 ゴン

ぬいぐるみに全幅の信頼を置いている人(全力で愛せる人)に憧れ、自分もそうなりたいものだと思ってついついぬいぐるみを購入してしまう。そこにぬいぐるみ自体への愛はなく、ただ、何かを愛でる人になりたいだけだ。

 

そういう意味で、4年前にハムスターを飼い始めたことを思い出す。実家でハムスターの赤ちゃんが生まれたというから、引き取ってきたのであるが、正直飼い始めはハムスターの存在そのものより「何かを愛でているというステータスのバフ状態」に癒しを感じていたと思う。自分ばかりに意識の矢印が向いていたのがハムスターによって良い意味で掻き乱され、自意識がとても良いバランスで落ち着いていたことを思い出す。

そのハムスターもきっかり2年と半年ほどの寿命を全うし、ちょうど1年前の今頃に息を引き取ったのであるが、思っていたよりもその喪失体験は大きく日々に影....ではないが何かを確実に落としている。

ハムスターが亡くなった直後、自分は平時より淡々と行動していたと思う。その淡々さと言ったら、傍から見れば薄情に映ったのではないかとさえ思う。淡々とペット葬儀の手配をし、淡々と周囲の人に飼っていたハムスターが亡くなったという報告をした。その度に皆大層なお悔やみの姿勢を見せてくるのであるが、渦中であるはずの自分はどこか所在なさげであった。一般にペットを喪失するとは、このような周囲を大いなるネガの空気に巻き込むほど巨大なイベントなのであろうというのは通念上理解はしていたが、自分が当事者になると渦中の心境は存外カラッとしたものであった。もちろん悲しく寂しくあったのだが、愛しきったという自覚があったのだ。2年という短い寿命の中で、彼(ハムスター)のために出来ることをすべてしてやったと心から思えた。だから当時はあまりジメジメとした感情は抱かなかったのだが。

 

先日の日記でちらと書いたのだが、その後、あらゆるイマジナリー動物の所作がハムスター基準で描かれるようになってしまった。つまり夢の中で動物が出てくるとき、それは姿がハムスターか、姿がハムスターではないが行動がハムスターであることばかりになってしまった。自分の中で動物と言えばハムスターだとイメージが固定されてしまったのであろう。来る日も来る日も愛鼠と愛鼠の形態を模倣するキメラの夢を見せられ、後から後から喪失への寂しさが募ってきた。夢の中では不思議と匂いも立ち上ってくるもので、思い出の夢の中ではハムスターのあの香ばしい白だしのような香りに包まれているのだが、起きると部屋の空気の無味乾燥さにうっすらと絶望する毎日である。かといって日がな一日中寂しい苦しいと思っているわけではなく、ハムスターの事を考えている時間は一日の内そう多くはないのだが、やはり隙間隙間に弱攻撃の如くおれにダメージを与えてくる。彼が毎日回し車を爆走していたケージはまだそっくりそのままの位置に置いてある。もう一度眠れないほどの走行音に耳を塞ぎたい。