2024/06/04

外では仕事の重鎮、家では家族の大黒柱として責任に圧し潰されそうだという男性が、ラジオに「私はもう限界だ、どうすればよいでしょう」とお便りを送っていた。パーソナリティーの回答は、「社会の一員でも家族の一員でもない、1人でできる趣味を見つけるのはどうか、サードプレイスを見つけてはいかがか」といったものだった。

 

サードプレイス、サードプレイスかあ。サードプレイスってよく言うけれど、結局、プレイスってなっちゃあ駄目なんじゃないかと思ってしまう。プレイスっていう建付けになってしまっている以上、そこに人が集まってしまうわけで、人が集まってしまったら役割が生まれてしまうわけで、そうしたら結局、家族でも社会人でもないが、また違うなにかを背負った分人が生まれてしまうだけなのではないか。

1人でできる趣味を、1人のまま完結させることの難しさったらない。1人でできる趣味を、特に何も考えず1人で続けていると、相当強い意志を持って1人であり続けようとしない限り何故かなんらかのプレイスに巻き取られていることになりがちで、そのプレイスはソーシャルな空間に広がっているものもあれば現実の場としてあることもあるのだけれど、結局そこで「新参者」「中堅」「ご意見番」などの役割が勝手に与えられて、そのレースや自治に巻き込まれてしまう。自由にやりたいはずの趣味に縛られる結果になりがちな気がする。それをいなしたりできる豊かな土壌や余裕がある状態であればあらゆるプレイスにガンガン参加していくのは悪いことではないのだろうけど、現状そこそこ負荷がかかっている人に対して「趣味を見つけて、やれ」は、なかなかハードルが高い提案だ。

 

なぜこんなことになってしまうんだろう。何故、もう限界だ、イッパイイッパイ、どうすればいいだろうという人間に対して、さらなる何か(今回の場合は、趣味の追加)を詰め込むことで救済を図ろう(もしくは、図れる)と感じてしまうのだろうか。社会の一員でも家族の一員でもない状態になるためには、わざわざ何かプレイスに参画しなければならないのか?ただ、ありのままですっ転がっているその状態こそが、なんでもないありのままの自分の状態ではないのか。なぜ、なにもしていない、全てをほおりだしてイソギンチャクみたいにただ、揺れている時間をよしとできないのか。とにかく、隙間に何かを詰め込んで、空いている時間をとにかく豊かなもの(現在の世論の物差しで、どうやらそうとされているもの)で埋めて、埋めて、埋めきったその先に幸福があるという謎の思想。あまりにも幻想的すぎるというか、そんな、外側から提供された思想や娯楽を隙間に闇雲に注入したところで己が救えるわけもねえだろうと思う。

 

ラジオはメディアだから、あらゆるメディアは何らかの消費活動を促進しないといけないから、趣味を見つけてやれ、みたいな方向に行きがちだ。「なにもするな」「本当になにもしなくていい、したいことをやれ、したいことがただ怠惰に毎日をすごすことなのであれば、それに従え」と発信してくれるメディアはない、あったとしたら信用に値する。これはおれの日記なのでおれはそういうことが言える。

 

とりあえず、空いている時間を空いている時間としてそのまま享受してみればとただ思う。それはぼうっとするということだ。別にしたくなければ散歩もしなくてもいいし、旅とか、アクティビティとか、別にしたくなければそんなことはしなくてもいい。例えばコンビニでいつもと違うものを買ってみるとか、なんかそういう手間暇のかからない「豊かっぽい」とされていることも、別にやりたくなければしなくてもいいと思う。心の底から湧き出ていなければそれはポーズでしかないから、やりたくない趣味なんてやらなくていいし、挑戦もしなくていい、つまんなくても俗っぽくても、同じものを一生食ってればいい。一度見た映画を何週も見ればよいと思う。だってそうしたいんだから、嘘をつく必要がない。そうして、何日でも何年でもかかっても構わないけれど、つまんねえ時間をつまんねえものとして消費している内に発酵されて内側から欲求は絶対に染み出てくる筈で、それは絶対にその期間自己と向き合い続けなければ出てこない匂いであり、それは、その期間外から与えられた他者の価値観に踊らされてわけもわからないまま忙殺されていた人間には醸せない「すごみ」のようなものとして表出してくると思う、おれはそれこそが「人間味」だと思っていて、だって、おれの世界って、とりあえずは今のところおれの気持ちでしかないんだから。それと向き合うことでしかさ、ないんじゃねえのかよお、と

おもう

 

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これらをやった、2つともメチャオモロです!